ブログについて思ったこと
Iljapa氏のブログを読んで、ふと思ったことがある。
じゃぱり書庫: https://ilapaj.com/
彼のブログはレポートのように理路整然と思ったことが書いてある。良いことだ。
私のブログはというと、やったこと列挙だったり時系列での配置だったりしている。
こちらにはShitpostsがあるように(日時が記載されているが、反映されるのはGithubでコミットした瞬間なのであんまりShitpostsの意味をなしていないのが懸念だ)、とにかくグダグダと書くことが目的になっている。
当ブログの理念を掲げておこう
無言の人間には主張がないというところから私は逃げるように文字を書き続けている。
私からしたら文字を残す事は生きるか死ぬかくらい重大なことだ。
どんなに支離滅裂であっても、なにか理解の取っ掛かりが無いといけない。
それはそれとして
まあ読みづらい文章は読まれないという問題はある。
そこは…、まあ、努力義務としておこうか。
楽器で音を鳴らすということ
さて、私のブログの正反対に位置するのが、楽器で演奏をすることだ。
演奏とは、自分の中に流れている音楽を楽器を通じて相手に説明することだ。
言ってみれば相手に自らの文脈を共有して説得するために指を運び、息を吹き込むのだ。
ゼロから音だけで主張をする。
リズムは崩してはならない、運指もミスってはいけない。楽器一本一発録りというのはたいへんなことだ。
昔ピアノを習っていてコンサートに行ったことがあるらしいが、恐ろしい事をさせたものだ。
大学時代にDJもやったが、これもなかなか度胸が必要なことだ。
無音の恐怖
ソロでの演奏と演説は大幅に違う。
こちらは楽器でのフィラーを習っていないので、「えーっと…」を意味する音符の鳴らし方は知らない。
PCに接続してRECボタンをクリックした瞬間、無音が始まる。
毎回その重圧を収録後にカットしてエフェクターを挿している。
息を整え、運指を思い出す。この間は無音だ。
この収録でミスをしたらカットしないとなと不安がよぎる。この間も無音だ。
最初の一音目の指を配置して、リードに息を吹き込むまでは、絶対に音は鳴らない。
恐ろしいくらい重たい沈黙だ。
理想との乖離
そして収録が終わる。
自分の中では「及第点だろう」として収録を止め、改めて自分の演奏を聴いてどう思うか。
カスや、と。
リズムはガタガタ、途中で関係のない音が鳴る、運指を忘れたのか、妙な間がある。
思った以上に人に伝わっていないのだ。音楽を知っている私がこの評価なら、知らない人にとってはノイズでしかなかろう。
さておき、絶望だけではない
でも悪い事ばっかりではない。
サックスを吹いている間、確実に成長している事が分かる。
数日腰を据えて練習しなくとも、とにかく費やした時間は無駄にはなっていないようだ。
スランプに陥ったとしても、ひたすら吹き続ければ良い。
私にとってサックスの練習は祈りの時間だからだ。
祈りに雑念は不要だ。いい演奏ができるように、ひたすら指の運びを覚え、息が長続きするようにブレスコントロールの練習もたまにする。
ブログについて改めて思ったこと
文章は楽器と違って自由がある。
言葉や文字を得た人間には感謝をしたいものだ。
だとしたら、大きくカテゴリ分けをした意味は大いにある。
MP3の配置などロジックの都合で分けたのだが、まあ結果オーライだ。
私はサックスで現物を出す。ブログではグダグダ支離滅裂な事を書く。
これでいいだろう。